講座の歴史
大正11年(1922)1月24日、慈恵会医学専門学校が大学に昇格した機会に、片山國幸博士が整形外科学講座の初代教授に任ぜられ、整形外科学講座が誕生した。
昭和初期は、整形外科の外来は先天性股関節脱臼、脊椎カリエス、結核性関節炎、内反足、斜頚で賑わっていた時代である。また、整形外科の治療が独立している大学は4−5校にすぎず、現代の整形外科領域の疾患や外傷の殆どが一般外科で扱われていた。
昭和8年(1933)、第8回日本整形外科学会学術総会を開催した。
昭和15年(1940)、日本の教授が独自に書かれた初めての整形外科の教科書である「臨床整形外科」を発刊した。
昭和20年(1945)、片山國幸教授は勇退され名誉教授となり、片山良亮博士が第2代教授に就任した。当時は終戦間近で、講座員も応召、被災などで少なく、診療、研究も自由にならず困窮のどん底にあったが、一致団結してそれを克服し、今日の隆盛の基礎を確立した。
昭和23年(1948)、第21回日本整形外科学会学術総会を本学中央講堂で開催した。当時の講座の研究は大別して二方向、すなわち骨関節結核の化学療法と脊髄小児麻痺の治療との2大テーマに向かって進められた。とくに骨関節結核に関する業績は世界的に有名である。
昭和29年(1954)、それまでの研究、治療の集大成として「片山整形外科」が発行された。
昭和34年(1959)、第32回日本整形外科学会学術総会を読売会館読売ホールで開催した。
昭和41年(1966)、片山良亮教授は定年退職され名誉教授となり、伊丹康人博士が第3代教授に就任した。伊丹教授は、むち打ち傷害に関する基礎的、臨床的研究によってその本態を解明するとともに、治療法を確立した。
また、骨粗鬆症に関する基礎的、臨床的研究によってX線診断の慈大式分類が汎用されるようになった。下肢調整術に関しても多くの基礎的、臨床的研究が行われ、セメントレスの人工関節の開発、腫瘍免疫に立脚した骨・軟部悪性腫瘍に対する治療法を開発した。
昭和52年(1977)、第50回日本整形外科学会学術総会を品川のホテルパシフィックで開催した。
昭和55年(1980)、伊丹康人教授は定年退職され、室田景久博士が第4代教授に就任した。
室田教授はライフワークである手外科の研究と臨床を発展させるとともに、慈大式人工股関節の改良にも力を注がれた。
この時代は、整形外科の基礎研究が急速に発展したが、講座の多くの若手医師が国内外の研究機関に留学し、特に生化学、細菌学、形態学の分野で多くの業績を残した。平成4年(1992)、第7回日本整形外科学会基礎学術集会を開催した。
平成7年(1995)、室田景久教授は定年退職され、藤井克之博士が第5代教授に就任した。藤井教授は、長年培われた基礎研究の業績をさらに発展させ、整形外科関連の主要基礎学会である第3回日米加欧整形外科基礎学会合同会議をはじめ日本軟骨代謝学会、日本結合組織学会を主催した。また、慈大式人工股関節と慈大式蝶番型人工膝関節の改良にも尽力し、JカップならびにトライフィックスJステムとヒンジニーJ人工膝関節を開発した。
藤井教授は平成17年3月23 日、病気療養中のところ、他界されたが、同年5月12-15日、第78回日本整形外科学会学術総会を故藤井克之会長のもとで横浜国際会議場にて開催した。
平成18年4月、丸毛啓史が第6代整形外科学講座担当教授に就任した。まず丸毛教授は全講座員に向け、若手医師の教育プログラムを確立すること、分野別臨床班の自由度を高め臨床・研究の活性化を図ること、そして講座運営の透明化を図ることを三つの基本方針として示した。そのうえで、具体的な10項目の行動計画を立て講座の改革を行った。課題は就任2年のうちにほぼ達成され、以降講座として、教育、基礎研究、臨床ともに大きく業績をのばした。平成25年4月から東京慈恵会医科大学附属病院病院長に就任し、6年に及び附属病院全体の舵取りを担った。また、同年5月には日本整形外科学会副理事長、平成27年5月からの2年間は第11代日本整形外科学会理事長に就任し、学会の改革にも取り組んだ。令和元年5月に第93回日本整形外科学会学術総会会長に就任。学会は令和2年に福岡市で開催予定であったが、全世界を襲ったCOVID-19により通常開催を断念し、大きな学会としては初となる完全オンライン学術総会を開催した。学会はさまざまな新しい取り組みを行い、過去最高の15,000人を超える参加人数を記録するなど、成功のもとに終了した。現在は学校法人慈恵大学理事および特命教授として大学全体の経営に従事している。
令和2年(2020)、斎藤充博士が第7代教授に就任した。